飯島くうがの生い立ち|祖母(岡本千鶴子)の現在や若い頃【平塚5遺体事件】

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今回はセクシー女優の飯島くうがさんについて取り上げます。

2015年頃にセクシー女優としてデビューしています。

飯島くうがさんは、自身の複雑で過酷な生い立ちを暴露してることで有名です。

そこで今回は『飯島くうがの生い立ち|祖母(岡本千鶴子)の現在や若い頃【平塚5遺体事件】』についてまとめていきます。

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飯島くうがのwikiプロフィール


芸名:飯島くうが
生年月日:1993年7月9日
年齢:28歳
出身:神奈川県
スリーサイズ:B:90cm(Gカップ) W57cm H84cm

 

飯島くうがは2015年に「CRAZY TATTOOの女」という作品でAVデビュー。

現在もセクシー女優として働きながら、新宿区の風俗店に勤務しています。

全身に施されたタトゥーや濃いめの化粧のギャル風なのが特徴です。

飯島くうがの生い立ち

飯島くうがさんはYoutubeなどで、自身の祖母が「平塚5遺体事件」の犯人であると、暴露しています。

 

 

平塚5遺体事件の犯人は岡本千鶴子です。

飯島さんの話によると、岡本千鶴子は現在は出所して生活保護を受けて生活しているそうですが、会うことは出来ていないそうです。

「会いたいですね。現在は出所して、生活保護を受けていると聞きました。なぜおばあちゃんが、おばさんを殺したのか、本当にわからない。本当の理由を知りたいんです」

飯島くうがさんは殺人犯の祖母に育てられていたと、自身の生い立ちを明かしています。

飯島くうがさんは1993年神奈川県横浜市内で生まれます。

母親は20歳でくうがさんを出産しますが、

くうがさんが3歳のときに離婚して、

祖母、母親、母親の異父妹との家庭で育ちます。

小学3年生のときに母親が家を出て、

3人で暮らすことになります。

しかし、祖母が病気になり、くうがさんは施設で育つことになります。

飯島くうがさんが中学1年生のとき、祖母が平塚5遺体事件の犯人として逮捕されます。

同時期に、飯島くうがさんは、児童養護施設を出て母親に引き取られますが、

母親との相性は悪く家出を繰り返します。

その後、家出中に出会った男性から無理やり覚せい剤を注射され性的暴行を受けます。

「事件後、中1で養護施設を出て母親と暮らしたのですが、折り合いが悪くて、即家出しました。地元で声をかけられた男の人の家についていったら、複数人に羽交い締めにされて、覚せい剤を打たれて、軟禁されたんです。正直、記憶は曖昧なのですが、1か月間、ほぼ毎日性的暴行を受けていました」

体重は30kg台まで減り、命からがら帰宅したくうがさんを待ち受けていたのは、児童相談所のケースワーカーと大勢の警察だった。

「帰宅した翌朝、覚せい剤使用で逮捕されました。取り調べでDNA検査があったのですが、警察の人から“殺人犯のおばあちゃんのDNAを受け継いでいるかもしれないからね”と言われたことは絶対に忘れません。私は当時13歳だったので教護院(児童自立支援施設)に送られました。ここでの生活は地獄、教員のイジメや体罰が日常茶飯事だったんです」

性的暴行を受けた後は、

教護院(現在の児童自立支援施設)に入所。

入所していた約2年間職員、入所者からのイジメにあうなど、過酷な日々を送ります。

中学3年生のときに出所しますが、覚せい剤ほか違法薬物の使用を繰り返し、逮捕され約2年、医療少年院に入所。

17歳の出所後、母親に引き取られるも再び家出しますが、

風俗業のかたわら2015年22歳で自らAV業界入りを志願し、デビューします。

「ずっと飯島愛ちゃんに憧れていたんです。この芸名も、愛ちゃんから頂きました。AVのお仕事も、最初は順調でしたが、“AV女優だから何をしてもいい”と勘違いする男も少なくありませんでしたね。一度は、クラブで“AV女優でしょ、5万でヤラせろよ”と言われてレイプされました。友達に相談しても“なんで逃げなかったの?”と言われたし、警察での事情聴取は、あまりに事細かに聞かれるのがつらすぎて、被害届を出すのを諦めてしまいました」

AV女優としてデビューした後も苦労はあったみたいですが、現在母親との関係は比較的良好で、

「過去に起こったことは変えられない。でもそれも価値あるように感じるんです。たしかに苦労したけど、その過去は自分にしかないものだから」

と前向きに毎日必死に生きています。

以上が飯島くうがさんの生い立ちとなります。

壮絶な人生ですね・・・

 

今は1日1日を大切に生きているということで、ある程度は立ち直ったとは思いますが、

「今も眠剤がないと寝れないし、引きこもる日もある」

「覚せい剤をしていた記憶がフラッシュバックする」

「今日一日、今日一日、と死なないでいられる日を積み重ねているだけです」

 

と、一日一日を何とか死なずに過ごしているという状態のようです。

何とか幸せになってほしいですね。

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岡本千鶴子の若い頃や生い立ち

平塚5遺体事件の犯人として逮捕された岡本千鶴子は、青森県の北津軽の出身です。

岡本千鶴子の生い立ちについては、2018年にexciteニュースが報じています。

5月3日未明、利加香さんの母親の、岡本千鶴子(54・当時)が逮捕される。

青森県の北津軽で生まれた千鶴子は、中学を卒業すると、結婚斡旋業者の仲介で北海道の奥尻島に嫁いだ。子どもも授かったが、夫が人付き合いが苦手で定職に就けないこともあり、生活は苦しかった。「ここでは子どもを育てられない」と言い、千鶴子は子どもを残して島を出た。

千鶴子は20代で湘南の地にやってくると、秦野市内のキャバレーでナンバーワンホステスとなる。千鶴子に夢中になったのが、峰宏さんの父親の山内利男氏だった。

遺体の第一発見者となった母親と利男氏で2人で営む蕎麦屋は、市内で1、2を争うほど繁盛していた。利男氏がそばを打ち、妻が接客していた。利男氏は、千鶴子と出会うまでは遊びを知らない、仕事一筋の男だった。

昭和53年、利男氏の妻が三男を授かった。峰宏さんは次男である。同じ年、千鶴子も利男氏の子ども、利英君を授かった。妻が離婚し利男氏の元を去ると、千鶴子が入ってきて、蕎麦屋で働き出した。

昭和59年12月末、6歳になっていた利英君が失踪する。「家の裏の車庫でサッカーボールを蹴っているうちにいなくなった」という千鶴子の証言で大々的な捜索が行われた。

千鶴子はテレビの人捜し番組に出て、「お願いします。(息子を)返してください」と泣きながら訴えた。平塚市の社会福祉協議会で「長男が北朝鮮に拉致されたのに国は何もしてくれない。お金がなくて困っている。何もなしじゃやっていけない」と泣きわめいたこともある。

利加香さんが生まれたのは、利英君失踪の翌年の昭和60年である。峰宏さんは父親の顔を見にしょっちゅう家に来ていて、利加香さんの遊び相手になっていた。利加香さんが長ずると、進路の相談にも乗った。

蕎麦屋のほうは客足が遠のき、経営権を売却、家も売り、利男氏は朝から毎日一升の酒を飲むようになった。平成9年、利男氏は喘息が悪化して死亡する。

千鶴子と利加香さんは、2DKのマンションで暮らしていたが、平成17年2月、家賃滞納で立ち退きが執行される。

「他に行くところがないから、ここで死ぬ!」

千鶴子は包丁を手に持って叫んだ。

迎えに来た峰宏さんのアパートで、その日から3人の生活が始まった。

10月12日未明、千鶴子は布団の上で、利加香さんの首にひもを巻き付けて殺害した。利加香さんのmixi日記には、「監禁状態」「自由がほしい」「親もうざいし、自分もうざい」などと書かれていて、千鶴子との感情的対立があったことがうかがえた。

峰宏さんが首つり自殺したのは、平成18年3月。市内のドライアイス販売店によると、峰宏さんと見られる男性が秋から週1回ほど訪れ、2キロのドライアイスを2~3個ずつ購入していたという。利加香さんの遺体にはドライアイスが密着した跡があり、県警平塚署の捜査本部は、千鶴子が、腐敗を遅らせるため峰宏さんに購入させていたのでは、という見方を示した。

峰宏さんの遺書には、千鶴子と利加香さんとの性的な三角関係をうかがわせる記述もあった。そうした関係の果てに、利加香さんが殺害されてしまったことを苦にしての自殺だったのかもしれない。

取り調べには素直に供述していた千鶴子だが、公判が始まると、利加香さんを殺したのは峰宏さんだとして、無実を主張した。だが、峰宏さんが勤務していた警備会社の出勤状況から、利加香さんが殺された時間帯はアパートにいなかったことが判明した。

ロフトにあった遺体のうち、1人は利英君であること、他の2人も千鶴子の子どもであることがDNA鑑定で確認されたが、死因などは不明のまま、死体遺棄罪の公訴時効(3年)が成立しているため不起訴となった。

平成20年10月23日、東京地裁において、殺人罪によって、岡本千鶴子に懲役12年の判決が下された。

exciteニュース

 

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平塚5遺体事件では、殺人罪によって、岡本千鶴子に懲役12年の判決が下されますが、詳しい事件の背景や動機はハッキリしていません。

 

飯島くうがさんも、理由が分からないと話しています。

 

なぜおばあちゃんが、おばさんを殺したのか、本当にわからない。本当の理由を知りたいんです
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