三宅一生の妻や子供(娘)の家族|若い頃と現在と本名

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世界的ブランド「ISSEY MIYAKE(イッセイミヤケ)」で知られる三宅一生さんが、8月5日に肝細胞がんで亡くなったことが報じられました。

享年84歳でした。

 

今回は三宅一生さんの家族についてまとめていきます。

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三宅一生の妻や子供(娘)の家族

三宅一生さんの家族に関する情報は一切ありませんでした。

ネット上では『娘』のワードが三宅一生さんの名前とともに検索されていますが、

これは、美術家のミヤケマイさんが三宅一生さんの娘ではないかと検索されているからだと思います。※二人は親子関係ではありません。

また、『三宅一生 娘 女優』とも検索されていますが、これはファッションデザイナーの山本寛斎さんとその娘で女優の山本未來さんとの関係を混同した人が検索していると考えられます。

三宅一生さんの訃報記事でも、ご家族に関する記述はないため、独身だったと可能性が高いです。

三宅さんの兄弟に関する情報もありませんでしたが、毎日新聞の報道では『肝細胞がんのため死去した。84歳。葬儀は近親者で営んだ。』とあるので、親族はいたみたいです。

 

三宅さんは2015年に読売新聞の記事で被爆者であることを告白しています。

 

 

原爆で母親を亡くし、自身も骨膜炎を発症したそうです。

広島に原爆が投下された70年前の8月6日。僕は小学1年生でした。朝礼が終わって教室に入ったら突然、ドーンときた。衝撃で割れた窓ガラスの破片が頭に刺さって。びっくりしてね。

母のいる自宅は爆心地から2・3キロ。「うちに行きたい」と疎開先の家の人に言ったら、乾パンをたくさん持たせてくれた。ひとりで母を捜しに向かいました。母は半身にやけどを負っていました。

(中略)

「長男なんだから、安全な田舎に行きなさい」。母は私を見るとすぐに、そう言いました。僕を生き残らせるためでしょう。母は、気の強い、しっかりした人でした。近所の人や親戚からも慕われていました。

軽くてしわにならない「プリーツ プリーズ」を生み出した三宅一生さん。海外から尊敬される日本人デザイナーの一人だった

被爆の影響で、4年生のときに骨膜炎を発症しました。この病気で亡くなる人もいましたが、ペニシリンのおかげで助かりました。看病してくれた母は、僕の病状が良くなって間もなく、亡くなりました。

読売新聞

三宅一生の若い頃と現在

三宅一生氏は1938年4月22日生まれの広島県出身。

多摩美術大図案科在学中から衣服のデザインを始め、卒業後の昭和40年に渡仏。

パリのオートクチュールの学校で学び、ギ・ラロッシュ、ジバンシィのもとで修業を積む中、学生らの反体制運動、五月革命に遭遇。

その後渡ったニューヨークでもヒッピー文化などに触れたことで、社会階層などを問わない、ジーンズやTシャツのように身近で機能的な衣服作りを決意します。

昭和45年、東京で三宅デザイン事務所を設立。

昭和48年から27年間、ブランド「イッセイミヤケ」のデザイナーとしてパリコレクションに参加。

平成5年に発売したロングセラーシリーズ「プリーツ・プリーズ」は、体と布のひだが作り出す美しさから〝着る彫刻〟とも評されます。

平成17年、高松宮殿下記念世界文化賞(彫刻部門)を受賞。

平成22年に文化勲章、平成28年に仏レジオンドヌール勲章コマンドゥールを受章。

斬新なアイデアを打ち出し、衣服と人体との関係を「一枚の布」を通して追究。芸術的にレベルの高い作品を次々世に送り出しました。

 

近年は表だった活動を控えていましたが、傘下ブランドの新しいプロジェクトの動向を気に掛け、自宅からスタッフにアドバイスを送るなどしていたそうです。

三宅一生の本名

三宅一生さんの本名は三宅一生(みやけ かずなる)です。

一生の漢字は本名と一緒ですが、読み方が違います。

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