長野県白馬村の雪深い山々に囲まれた小さな村で生まれた近藤心音(こんどう ここね)。2003年2月19日生まれの彼女は、フリースタイルスキーの新星として世界にその名を轟かせてきた。
スロープスタイルとビッグエアという、アクロバティックな技を競う種目で、幼少期から父の指導のもと鍛え上げられたその身体は、まるで雪の妖精のように軽やかだ。
しかし、彼女のキャリアは華々しい輝きの裏に、過酷な試練を伴う。2022年の北京冬季オリンピック、そして2026年のミラノ・コルティナ冬季オリンピック――2度の五輪で、練習中の転倒による重傷を負い、無念の棄権を強いられました。
ミラノフリースタイルスキー
近藤選手 欠場…
涙が止まらない
心音さん
ありがとうございます
本当に本当にありがとうございます pic.twitter.com/WOb8SFFtvr— 新 任侠たけさん・夜の帝王 (@BYlLvDsaRp85463) February 7, 2026
この記事では、近藤心音の経歴を振り返りつつ、特に注目される怪我歴を詳述する。また、出身校である中学・高校のエピソード、そしてスキー一家の父親・母親の家族像に迫ります。
近藤心音の怪我歴
近藤心音のキャリア最大の試練は、何と言ってもオリンピックでの怪我だ。2022年北京五輪では、18歳の若さで代表に選ばれ、世界中から注目を集めた。しかし、開会式直前の2月5日、ビッグエアの公式練習で右膝を痛め、翌7日の予選を欠場。診断は前十字靱帯損傷と半月板損傷。激痛に耐えながらも、チームメイトの活躍を見守るしかなかった。さらに、2月12日のスロープスタイル練習で再び転倒。ジャンプ台からの着地に失敗し、同じ右膝に深刻なダメージを負う。医師からは「手術不可避」と告げられ、心音は涙をこらえながら帰国を余儀なくされた。
この怪我は、単なる肉体的損傷ではなかった。心音自身が後年語るように、「現実を直視できず、部屋に引きこもった」時期があった。父の信氏も、「娘の夢が潰えた瞬間だった」と振り返る。手術後、10カ月のリハビリ生活。歩行すらままならない日々を、家族の励ましで乗り越えた。復帰後、滑りを一から再構築。2023年のW杯で4位入賞を果たし、「この怪我が自分を強くした」と前向きに語る姿は、ファンを勇気づけた。
そして、2026年ミラノ・コルティナ五輪。4年越しのリベンジを誓い、イタリアの雪原に降り立った心音。開会式前日の2月5日、スロープスタイルの公式練習で、再びの転倒。風に煽られバランスを崩し、左膝に着地。診断は前十字靱帯と内側側副靱帯の損傷、半月板骨挫傷。「本来であれば歩くことも不可能」な大怪我だったが、心音は「最後まで諦めずに雪上を滑った」と、ギリギリまで出場を諦めなかった。2月7日のスロープスタイル本戦を棄権し、ビッグエアも欠場が決定。2大会連続の無念の棄権に、彼女は涙ながらに「理不尽で悔しい。でも、次がある」とコメントした。
近藤心音のwiki経歴
近藤心音のスキー人生は、文字通り「雪とともに育つ」ものであった。長野県白馬村は、1998年の長野冬季オリンピック開催地としても知られるスキーの聖地。彼女の生家は、そんな白馬の中心に位置し、幼い頃からスキー場が遊び場だった。
3歳の頃、父親の近藤信(まこと)氏からスキーを教わり、すぐにその魅力に取りつかれたという。父はフリースタイルスキーのパイオニアで、1990年代に日本を代表する選手として活躍。心音にとって、スキーは単なるスポーツではなく、家族の絆そのものだった。
小学校時代、心音は白馬村の地元公立小学校に通いながら、週末ごとにスキー場へ通った。小学5年生の頃、本格的に競技スキーに転向。2015年、12歳の時に国内最大級のジュニア大会「FIS Oze Tokuraスロープスタイル」で優勝を果たす。これは、18歳以下対象の大会での快挙で、彼女の才能を一気に全国に知らしめた。
以降、国際大会への道が開け、15歳でワールドカップ(W杯)デビューを飾る。長野県の「SWANプロジェクト」――有望な若手アスリートを支援するプログラム――に選ばれたのもこの頃だ。目標は明確だった。「オリンピック出場」。父の後押しもあり、心音はプロフェッショナルへの道を歩み始める。
中学時代、白馬村立白馬中学校に進学した心音は、学業とスキーを両立させる厳しい日々を送った。学校は村の中心にあり、授業が終わればすぐにスキー場へ。部活動はスキー部に所属し、放課後には父の指導のもとでトリック(技)を磨いた。スロープスタイルは、ジブ(レールやボックスを使った技)とジャンプを組み合わせた種目で、ビッグエアは巨大なキッカーを用いた大ジャンプが中心。心音の得意技は、ダブルコーク(空中で2回転半)やスイッチ(逆向き滑走)で、すでにジュニアレベルで世界トップクラスだった。
2018年、中学3年生の時にジュニア世界選手権で入賞を果たし、プロ契約を結ぶオリエンタルバイオへ所属が決まる。
高校進学後、心音は白馬村立白馬高等学校に在籍しつつ、通信制のNHK学園高等学校を併用した。これは、スキー競技のスケジュールに合わせた選択だ。白馬高校は地元密着型の学校で、スキー部が活発。心音はここで基礎的なトレーニングを積み、NHK学園の柔軟なカリキュラムで学業をクリアした。高校2年生の2020年、FIS Oze Tokuraでスロープスタイルとビッグエアの両方で優勝。
翌2021年、W杯スロープスタイル予選2位、決勝7位の好成績を収め、世界選手権ではスロープスタイル9位、ビッグエア15位と、シニアデビュー戦で堂々の結果を残す。この活躍が認められ、18歳で北京五輪代表に選出された。
北京五輪後、怪我からの復帰を果たした心音は、2023-2024シーズンにW杯で自己最高4位を記録。
シーズン総合7位と、着実にランキングを上げていく。2025-2026シーズンには、ミラノ・コルティナ五輪代表に内定。スイスでの最終W杯で表彰台に食い込み、父と最終調整を重ねた姿は、多くのファンを感動させた。
出身高校・中学
近藤心音の学歴は、スキー競技との両立を象徴するものだ。中学は白馬村立白馬中学校。長野県北安曇郡白馬村に位置するこの学校は、生徒数約200名の小さな公立中学校で、スキーが盛んな地域ゆえ、スキー部が活発。心音は中学入学時から部活動に没頭し、校内では「スキーの天才少女」として知られた。授業中も雪のコンディションを気にし、冬休みは合宿続き。教師の理解もあり、学業平均点は常に上位をキープしたという。思い出のエピソードとして、中学2年生時の学校行事で、スキーショーを披露。クラスメートを驚かせたそうだ。
高校は、白馬村立白馬高等学校とNHK学園高等学校のダブルスクール。白馬高校は、中学と同じ村立の進学校で、スキー部が全国大会常連。心音はここで基礎教育を受け、友人たちとの絆を深めた。しかし、W杯出場の頻度が増す高校2年生以降、対面授業が難しくなり、通信制のNHK学園高等学校(東京都)を併用。NHK学園は、プロアスリート向けの柔軟なカリキュラムが魅力で、心音はレポート提出とオンライン授業で卒業資格を取得した。2021年春、NHK学園を卒業後、大学進学はせず、プロアスリートとして専念。現在も白馬を拠点にトレーニングを続ける。この学歴選択は、家族のアドバイスが大きかった。父の信氏は「学業を疎かにせず、スキーを極めよ」と指導。白馬の学校は、村の自然を活かした教育環境で、心音のメンタルヘルスにも寄与した。卒業生として、地元五輪代表に選ばれた心音は、学校の誇り。2026年五輪前、白馬中・高校で激励会が開かれ、彼女は「故郷の雪が私を支えてくれる」と感謝を述べた。
出身校は、心音のルーツを物語る。中学の純朴な日々、高校の両立の苦労――これらが、彼女の忍耐力を養ったのだ。
父親・母親の家族:スキー一家の温かな絆
近藤心音の家族は、スキーの「王朝」と呼ぶにふさわしい。4人家族で、父・母・心音・妹の構成。皆がスキーに関わり、互いを高め合う関係だ。
父親の近藤信(まこと)氏は、1960年代生まれのスキー界レジェンド。1990年代、フリースタイルスキーの日本代表として、モーグルやエアリアルで活躍。引退後は指導者に転身し、白馬のスキースクールを運営。心音の最大のコーチで、3歳からトリックを教えた。厳しい指導で知られるが、娘の怪我時には「一緒に泣いた」と語る優しさも。北京五輪後のリハビリでは、毎日付き添い、ミラノ・コルティナ前も小谷村で最終調整を共にした。信氏の影響で、心音のスタイルは父譲りの大胆さを持つ。
母親の近藤聖子(きよこ)氏は、元モーグル選手。夫とともにスキースクールを支え、家族の「縁の下の力持ち」。心音の幼少期、父の不在時に練習を代行し、栄養管理やメンタルケアを担った。聖子氏のモーグル経験から、心音はエアーセンス(空中感覚)を磨いた。家族旅行はいつもスキー場で、母の「楽しめ」という言葉が、心音のモットー源流だ。
妹の近藤叶音(かのん)氏は、心音より3歳年下のフリースタイルスキー選手。姉妹で合同練習が多く、互いにライバルでありサポーター。叶音もジュニア大会で活躍し、家族4人で雪上を駆け巡る姿は、白馬の名物だ。心音は「妹がいるから頑張れる」と語る。兄弟姉妹は妹のみで、大家族ではないが、絆の深さは計り知れない。このスキー一家は、怪我の時こそ輝く。北京後、家族総出でリハビリを支え、ミラノ・コルティナの棄権時も「次がある」と励ました。信氏夫妻の指導哲学は「失敗を恐れず挑戦せよ」。心音の不屈の精神は、この家族の賜物だ。