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桐野英子wiki経歴や年齢と出身大学・高校|結婚(旦那)や子供はいる?【カワサキモータースジャパン社長】

今回は2021年10月1日にカワサキモータースジャパン代表取締役社長に就任した桐野英子氏についてとりあげます。

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桐野英子wiki経歴や年齢と出身大学・高校

桐野英子氏は札幌出身で、高校卒業後に東京外国語大学外国語学部に進学。

札幌出身の桐野氏が進学にあたり、東京の大学で外国語を学ぶことにしたのは、故郷を出てどこか遠くへ行ってみたかったからだった。

「ただ親が非常に厳しくて、『絶対に北海道では勉強できないことを学ぶためでない限り、認めない』と。そこでいろいろ探してみると、東京外大にペルシャ語学科というのがありまして、ちょっとエキゾチックで面白そうだなというぐらいの気持ちで選んで受験したんです」

 

東京の大学に通うことにした理由は地元から離れてみたかったからとのこと。

大学時代にバイクと出会い、愛車はナナハン。

学生時代は、ずっとナナハンに乗っていたそうです。

桐野英子氏は大学卒業後の1991年4月に川崎重工業株式会社(KHI)に入社。

桐野英子氏の詳しい年齢は不明でしたが、1991年3月に大学を卒業していることを考えると50歳前後だと考えられます。

川崎重工した理由は外国でのある出会いがきっかけだったと語っています。

 

となると就職活動時に川崎重工を志望したのは、自身がライダーで、カワサキ車を乗り継いできた思い入れもあって、バイク部門の仕事がしたかったからだろうと想像してしまう。しかし、実際の動機は違う。

専攻していたペルシャ語はイランの公用語なので、桐野氏は大学在学時にイランやその隣国であるトルコを度々訪れている。何度目かのトルコ旅行の際、同国のヨーロッパ部分とアジア部分を隔てるボスポラス海峡近くでバスを待っていた時のことだった。

「たまたま居合わせたトルコ人男性と言葉を交わしていると、彼が『海峡にかかっている第二ボスポラス橋を見たか?  あれは、あなたの国の日本が架けてくれたものだよ』と教えてくれたんです」

当時、同海峡には2本の橋が架かっていた。新しい方のファティーフ・スルタン・メフメト橋(通称・第二ボスポラス橋)は1988年、日本政府の開発援助によって建設されている。

「その話にすごくロマンを感じて、日本の技術力で新興国に貢献する仕事がしたいと思うようになったんです。実現できるとすれば、重工業系の会社。しかもカワサキ車に乗っていましたから、迷わず川重を志望しました」

 

桐野英子氏は1991年に川崎重工業(株)への入社以来、一貫してモーターサイクルと関わり、

Ninja H2Rの商品企画担当、KXシリーズやZXシリーズなどパフォーマンス系モデルを多く担当されてきました。

フランスのカワサキ販社で代表を務めた経験もあり、経営手腕は高く評価されています。

2015年からマーケティング部に移り、各モデルのグローバルなPR方針の策定や、ワークスとしてのレース活動のプランニング、出場ライダーの決定・契約の管理に取り組みます。

2018年にはマーケティング部部長となります。

そして、川崎重工から『カワサキモータース』が独立するにあたり、同社の伊藤浩社長より直々に経営を任され、KMJ代表取締役社長に就任します。

分社化の目的として、以下の3点が挙げられています。

① 自律的事業経営を徹底。B to C 事業の特性を活かし、意思決定のスピードを向上
② ポストコロナを見据えた新たなライフスタイルの提案など、顧客に密着した製品・サービスの提供により、ブランドを強化
③ 環境規制対応、電動化や先進安全技術などの進展を見据え、業界内での連携を強化するとともに、市場を活性化

主な経歴

1991年4月 川崎重工業株式会社(KHI) 入社

2001年1月 KMF(フランス)出向

2009年1月 KHI 汎用機カンパニー 営業本部 CP営業部

2011年10月 KHI 汎用機カンパニー 技術本部 商品企画部

2015年7月 KHI モーターサイクル&エンジンカンパニーマーケティング部

2018年2月 KHI モーターサイクル&エンジンカンパニーマーケティング部長就任

2021年10月 KMJ(日本)出向 代表取締役社長就任

結婚(旦那)や子供はいる?

桐野英子氏の家族について調査しましたが、有力な情報は確認できませんでした。

桐野氏の年齢は少なくとも50歳は超えていると考えられるので、結婚されていても不思議ではないですが、経歴をみるとずっと仕事に力を入れてこられたようなので独身の可能性もありそうです。

何か分れば、追記します。

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