片桐清二機長ミスにより起きた「日本航空350便墜落事故」が、2023年3月13日放送の【仰天ニュース】で取り上げられます。
そこで本記事では片桐清二機長と事故の内容について詳しくまとめていきます。
日本航空350便墜落事故について
1982年2月9日、日本航空(JAL)の福岡発東京行350便は、午前7時34分に福岡空港を離陸。
当日、片桐清二機長は吐き気などの体調不良から朝食を取っておらず、客室乗務員が持ってきたコーヒーにも口をつけませんでした。
午前7時51分、同機は巡航高度29000フィートに達して水平飛行に移り、8時19分、着陸準備のために16000フィートまでの降下を羽田空港管制官が指示。
片桐清二機長はこれを受けて降下を開始。
8時43分、石川幸史副操縦士が500フィートのコールを行いましたが、片桐清二機長は応答せず。
石川幸史副操縦士が200フィートとコール、さらにその直後に、決心高度を示す「ミニマム」をコールしました。
本来であれば「ミニマム」コールの後に機長は「ランディング」もしくは、「ゴー・アラウンド」とコールアウトしなければなりませんが、片桐清二機長は「チェック」とコール。
その直後片桐清二機長は、機体が高度164フィートを時速240kでで飛行しているタイミングで、突然自動操縦装置を切ると、操縦桿を前に押し倒して機首を下げ、全エンジンのスロットルレバーをアイドル位置にまで引き戻して推力を下げる操作を行います。
さらに、第2エンジンと第3エンジンのスラストリバーサー・レバーを逆噴射の位置に操作。
石川幸史副操縦士は咄嗟に操縦桿を引き戻しますが、この時に片桐清二機長はまだ操縦桿を前に押し倒すようにしていました。
そして、8時44分7秒、機体は、滑走路前の海上に設置されていた誘導灯に車輪を引っ掛けながら、滑走路から550メートル手前の空港南側の東京湾海上に墜落しました。
救助活動が行われましたが、乗員乗客174人のうち24人が死亡、149人が負傷する事故となりました。
上記のようにこの墜落事故は片桐清二機長のミス(異常操縦)により引き起こされました。
片桐清二機長の現在
ちょうど40年前….
あの事故以降から、ちょいとした流行語にもなった
片桐清二機長の
‘逆噴射’わたくしタカ吉は
その年(1982年)春に中学校2年に進学したんだけど‥.
あの当時....
不謹慎にも「逆噴射」がやたら流行ってたのを思い出す#日航機羽田沖墜落#日本航空350便墜落事故から40年 pic.twitter.com/628w28eSc3— ミスターX🇯🇵🎌2023脱ツイ廃宣言❗💡 (@utm_s43) February 9, 2022
片桐清二機長は墜落事故後、業務上過失致死罪により逮捕されています。
しかし、精神鑑定の結果、妄想型精神分裂症(統合失調症)と診断され不起訴処分となりました。
片桐清二機長はその後、精神衛生法に基づいて東京都立松沢病院の精神科に措置入院となり、事故から約1年後に日本航空を解雇。
現在は神奈川県にある葉山町で普通の生活を送っているという噂がありますが、真偽不明。
片桐清二機長の現在について詳しいことは判明していません。
片桐清二機長のwiki経歴
片桐清二は大分県別府市の時計店を営む裕福な家庭に生まれます。
家族構成は両親と姉の千鶴子の4人です。
大分県立別府鶴見丘高等学校卒業後、岡山大学理学部数学科へと進学。
岡山大学を2年で中退し、航空大学校を卒業。
1969年10月1日にパイロットとして日本航空に入社します。
1976年8月26日に日本アジア航空へと出向し、定期運送用操縦士の学科試験を受けますが不合格。
この頃から精神的に不安定になるようになったそうです。
1979年12月、33歳の時機長に昇格。
機長昇格の約2年後に「日本航空350便墜落事故」を起こしています。
片桐清二機長の妻と娘
片桐清二機長は結婚しており、妻と娘がいます。
家族の証言によると、片桐清二は1976年頃からすでに精神異常の兆候が現れていました。
片桐清二が事故のかなり以前から精神異常が疑われる行動を繰り返していたにもかかわらず、機長として旅客機を操縦させていた日本航空に対する当時の批判も大きかったようです。
片桐清二機長の妻と娘の名前や顔写真は公開されていませんでした。