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造田博(池袋通り魔殺人事件犯人)の死刑執行停止の理由と高校【仰天ニュース】

2022年5月24日放送の仰天ニュースでは造田博(ぞうだ ひろし)が取り上げられます。

造田博は1999年に起きた『池袋通り魔殺人事件』の犯人です。

造田博は池袋の東急ハンズで包丁と金づちで無差別に通行人を襲いました。

この事件では女性2人が死亡し、通行人6人が負傷となりました。

そこで今回は池袋通り魔殺人事件の概要と犯人・造田博についてまとめていきます。

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池袋通り魔殺人事件のwiki概要

事件が起きたのは1999年9月8日午前11時35分の池袋の東急ハンズ池袋店前。

当時23歳だった造田博はバッグから包丁と金づちを取り出し、無差別に通行人に襲いかかります。

造田博は最初に若いカップルを追いかけますが、逃げられてしまい、

標的をサンシャイン60のエスカレーター昇ってきた老夫婦に変えて襲いかかります。

犯行を見ていた通行人が逃げ出すと、造田博はそれを追いかけます。

ちょうどその時、東急ハンズ前には事件が起きていることを知らずにパスポートセンターに向かう若い夫婦が、正面からやってくる造田博と鉢合わせます。

妻(29)の方は何か異変を感じ、逃げようとしますが、造田博はすれ違いざまに妻(29)の方を包丁で刺します。

そして、造田博は池袋駅方向に走り、その途中で私立高校の1年生4人グループのうち3人を切りつけ、さらに通行人2人に切りつけます。

その後、造田博は勇敢な通行人らに池袋駅前で取り押さえられ、その場で警察に逮捕されました。

10名の男女が被害に遭い、2人が死亡、6名が重軽傷、2名が服などを切られます。

死亡した2人は最初に襲われた老夫婦の妻(66)と、すれ違いざまに刺された29歳の女性でした。

造田博(池袋通り魔殺人事件犯人)の死刑執行停止の理由

「池袋通り魔殺人事件」の裁判では、事件当時の造田博の責任能力の有無が争点になりました。

公判前の簡易鑑定では、「人格障害ではあるものの、責任能力があると」認められていたため、検察は死刑を求刑します。

一方弁護側は、「精神分裂症による妄想状態で、心神喪失または心神耗弱だった」として精神鑑定を求めました。

 

精神鑑定の結果、造田博の責任能力が認められ公判が再開。

東京地裁は、造田博被告に求刑通り死刑の判決を下しました。

弁護側は「統合失調症による無罪」を主張しましたが、裁判所は鑑定結果を支持。

造田博被告に死刑の判決を下しました。

 

判決を不服とした弁護側は、即日控訴しましたが、東京高裁はこれを棄却、一審を支持し死刑の判決を下しました。

弁護側は「統合失調症を患っていたため責任能力はない」と無罪を主張し、さらに上告しましたが、高等裁判所はこれを棄却。

「無差別に通行人を襲った犯罪は凶悪で社会に与えた影響も大きい」として、一審、二審を支持し、造田博の死刑のが確定しました。

 

時系列
・2002年1月8日東京地裁で死刑判決
・弁護側は控訴するも2003年9月29日に東京地裁で棄却
・2007年4月29日最高裁でも棄却「白昼、目についた通行人を手当たり次第に襲った犯行の罪質は極めて悪質」と判断される

 

死刑が確定した造田博ですが、現在も死刑は執行されていません。

 

死刑が執行されていない理由は造田博が死刑執行停止の勧告の対象となっている為です。

 

最高裁にて死刑が確定しましたが、2009年に東京地裁に再審請求をしています。

 

犯行時に統合失調症の影響で心神喪失状態あったと主張し、裁判のやり直しを求めています。

 

2015年には最高裁への再審請求は棄却されていますが、現在最高裁係属中とのこと。

さらに、2018年に死刑執行停止の勧告の対象となっていることも発覚。

そのため現在も死刑執行はされていないようです。

 

造田博は現在も収監中となっていますが、拘置所・衛生夫が造田博死刑囚の様子について語っており、

造田博は食事やトイレ以外は全く動かず、一言も喋らない廃人になっているそうでうす。

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造田博(池袋通り魔殺人事件犯人)の高校とwiki経歴

本名:造田博(ぞうたひろし)
生年月日 :1975年11月29日
年齢:46歳(2022年5月時点)
出身:岡山県倉敷市

 

造田博は大工の父とミシンの内職をしていた母親との間に次男として誕生。

家族は両親と4歳年上の兄の4人家族でした。

比較的裕福な家庭に生まれますが、父親が兼業農家だった祖父の土地を引き継いだことから歯車が狂い始めます。

 

造田博は幼少期は普通のどこにでもいる子供で、将来の夢はカーレーサー。

頭もよく、高校は県内でも進学校として知られる県立倉敷天城高校に進学します。

 

しかし、造田博が中学生のころ祖父の土地を相続した父は、土地を売って多額の資産を得ます。

父親は徐々に働かなくなり、母親が保険の外交員となって働きに出るようになります。

しかし、母親も働かなくなり、両親はギャンブルにハマってしまいます。

お金もほとんどなくなり、借金取りも絶え間なく家に訪れるようになります。

そして、造田博が高校2年生のとき、両親は造田博を捨てて蒸発。

 

造田博は、大学進学を強く希望していたため、弁当屋で働きながら高校になんとか通っていましたが、結局一人ではどうすることもできず、1993年に高校2年生で退学します。

退学した造田博は、大学生となって広島で1人で生活していた兄を頼ります。

広島県福山市に移り住み、パチンコ店員、造船所塗装工などの仕事につきますが、どれも長続きしませんでした。

職を転々とするようになり、愛知や京都、東京で生活拠点も転々とし始めます。

造田博はこの頃から徐々に精神的な異常がみられるようになり、苦労や努力が報われないことに不満を募らせていきます。

造田博が起こしたトラブル

造田博は職場では真面目に働き、人間関係においても問題を起こさないように嫌なことも我慢して気を使うなど努力をしていました。

しかし、給与面や待遇に不満があり、長続きすることはありませんでした。

元々、頭もよく大学進学希望でしたから現状に不満があったのだと思います。

苦労や努力が報われないことに不満を募らせ仕事が続かず、お金もなくなります。

 

お金がなくなった造田博は広島にいた頃に万引きを繰り返すようになり、そのたびに兄がお店に謝罪。

コンビニで万引きしたナイフを所持していたため、銃刀法違反に問われ、罰金10万円の略式命令が出されました。罰金は兄が立て替えます。

 

1997年夏頃には、造田はこのような不満を訴えるべく、外務省に難解な内容の手紙を多数送付。

兄に対しても同様に理解困難な手紙を数通送ります。

その後、造田博は小学校の時に好きだった同級生のA子さんに告白されたと思い込み、大学生になったA子さんに好意を伝える手紙を送ります。

A子さんの自宅に電話をかけたり、直接自宅にも行くようになります。

A子さんは当然、造田博の行動に恐怖を覚え、拒否します。

A子さんの父親が造田博に「娘はあんたのことを知らない。本人も嫌がっているし、うちの子にはまだ勉強することがある」と話して対応。

このときは造田博は素直に応じますが、

1998年6月にA子さんがアメリカへ留学していることを聞きつけると、自分もアメリカを訪れます。

造田博は僅か200ドルの所持金を持って米オレゴン州のポートランドへと渡航しますが、A子さんと会うことは出来ず、

パスポートを破り捨てるという狂気染みた行動に出ます。

最終的に日本領事館によって保護された造田博は、斡旋されたジャパニーズ・パブテスト教会の援助で日本へと帰国します。

このとき造田博はA子さんと本気で付き合っていたという妄想のなかにいて、精神状態・健康状態もかなり悪化していたといわれています。

犯行に至る経緯

精神にも不調をきたし始めた造田博ですが、1999年4月24日から足立区にある新聞販売所で新聞配達員として働く事になります。

販売所から徒歩5,6分のところにある木造アパートの一室を借りて新生活を始めます。

真面目に働いていましたが、一度だけ遅刻してしまいます。

当時、造田博には連絡手段がなく、上司から携帯電話を持つようにと薦められて携帯を手にいれます。

 

造田博は携帯を買いますが、1999年9月3日に買ったばかりの携帯電話にかかってきた1本の無言電話が引き金となり、これまでの不満が爆発して凶行に及びます。

 

この無言電話が池袋通り魔殺人事件のきっかけとなったといわれています。

 

造田博は販売所の中に嫌悪していた人物がおり、その人物が造田博の携帯電話に無言電話を掛けてきたと思い込み激怒します。

実際は誰が無言電話をかけたのかは不明ですが、携帯を買ったばかりで番号を職場の人間しか知らなかったため、職場の人が電話を掛けた可能性は高いです。

 

造田博は9月4日午前3時頃にアパートを出て、包丁や金槌を購入し、犯行に及ぼうとしますが、4日ほど逡巡。

その間、カプセルホテルに泊まっていました。

 

そして、ついに1999年9月8日午前、池袋のサンシャイン通りにおいて無差別通り魔殺人事件を起こし、逮捕されました。

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