2022年5月28日に日本赤軍の元リーダー・重信房子受刑者(76)が刑期満了を迎えて出所します。
カリスマ性から多くの支援者を集め、『テロリストの女王』『国際テロの魔女』と呼ばれた重信房子。
いったい過去に何をしでかしたのでしょうか?
そこで今回は重信房子若い頃や経歴、娘や夫の家族についてまとめていきます。
重信房子の出所後の現在
重信房子は刑期満了となり、5月28日に出所することになりますが、現在は癌を患っており、東日本成人矯正医療センターで服役していました。
重信房子は2020年末に大腸がんを患っていることが判明。
2021年に手術を受け、経過観察で検査を繰り返していました。
一部のメディアによる服役中に複数回の手術を行っていたようです。
出所後は癌の治療に専念しながら、ツイッターなどのSNSを活用して思いを発信する可能性があるそうです。
また、反省と謝罪つづった手記も公表される予定だそうです。
重信房子の若い頃が美人【顔写真】
重信房子は1945年9月28日生まれの東京都出身。
東京世田谷区で4人兄弟の次女として生まれました。
幼少期は文学を好み、1965年に教師をしながら小説家になろうと考え、明治大学の夜間部に入学します。
そこで学生運動に参加したことがきっかけで、親友となる遠山美枝子と知り合います。
その後、重信房子は共産主義者同盟に加入し、1967年には生らが機動隊と衝突した「羽田闘争」にも参加。
後の日本赤軍や連合赤軍の母体となる赤軍派の創立メンバーに1969年に加わり、
本格的に新左翼党派としての活動を開始することになります。
こちらが若い頃の重信房子の写真になります。
かなりの美人で、周囲からも注目を集める存在だったみたいです。
重信房子はパレスチナ問題に傾倒して1971年にレバノンへ出国し、「日本赤軍」を結成してリーダーとなります。
ハーグ事件
1974年9月、日本赤軍はオランダのデン・ハーグにあるフランス大使館を襲撃します。
大使らを人質に取り立てこもり、フランス当局に捕まっていた仲間の解放を要求。
世間では「ハーグ事件」と呼ばれており、犯行グループは当局に要求を呑ませることに成功し、シリアに逃亡。
重信房子はハーグ事件に関与したとし、逮捕監禁・殺人未遂などでの共謀共同正犯の容疑で国際指名手配を受けます。
その後、重信房子は海外に潜伏し、20年以上も逃亡生活を続けます。
2000年に偽造パスポートを使い日本国内に不法入国し、
潜伏していた大阪府内で逮捕されました。
同世代以上には通じると思っていた渾身のギャグ「昭和の呼吸 壱ノ型 重信房子!」が今のところ夫しか爆笑してくれない。帰省した時に親に見せるか……
※構えについては添付画像参照 pic.twitter.com/2mAIpAsM3T— かいゆ (@bird_hunter_mad) November 21, 2020
この逮捕劇から過去3年ほどの間に4回も日本に不法入国した記録があったそうです。
裁判では無罪を主張しますが、2002年に懲役20年の判決が言い渡されます。
2010年に懲役20年が確定し、現在まで服役していました。
2001年4月には、重信房子は獄中から「日本赤軍としての解散宣言」を行いました。
解散の理由についてですが、日本赤軍は新たな支持者を獲得する事ができず、既存メンバーやシンパの高齢化も進んで、先細りの状況。
すでに事実上の壊滅状態にあったからでした。
娘・重信メイの現在と結婚
重信房子の家族とえいば、娘の重信メイさんが有名ですね。
重信メイさんは日本でメディア関係の仕事をしており、母親が重信房子であることを公表しています。
名前:重信メイ
生年月日:1973年3月1日
国籍:日本
職業:ジャーナリスト、ニュースキャスター
重信メイさんは、高校卒業後はベイルート・アメリカン大学に進学。
卒業後は同大学の国際政治学科大学院に進学し、1998年から2001年までレバノン大学でもジャーナリズムを学びます。
現在は河合塾の講師として生活しながら、ジャーナリストやニュースキャスターといったメディア系の仕事でも活躍されています。
上記の写真は2022年5月25日に取材に答えているときのものです。
重信メイさんの父親はパレスチナ人の活動家で、イスラエルとの闘争中にミサイル攻撃により暗殺されたと推察されています。
出生後、どこにも届け出がされていなかったために28年間無国籍でしたが、2001年3月5日に日本国籍を取得し、同年4月に来日。
これまでに重信メイさんが結婚したという情報はありませんでした。
娘の父親(夫)の家族写真
重信房子は日本赤軍創設メンバーで最高幹部だった奥平剛士との結婚歴があります。
しかし、奥平剛士とは偽装結婚だったといわれています。
奥平剛士
日本赤軍の最高幹部。奥平純三の実兄。
1945年、山口生まれ。京大時代に学生運動に参加していた。
1971年に重信房子と偽装結婚し、レバノンへ出国。同年に日本赤軍を結成した。翌年にテルアビブ事件を起こし、警備員に殺害された。 pic.twitter.com/JDKi9saNoR— 日本赤軍bot (@JapanRedArmyBot) June 27, 2015
奥平剛士は1945年7月21日生まれで、
1972年5月30日に岡本公三・安田安之らとテルアビブ空港乱射事件を起こし、亡くなっています。
重信房子はその後、パレスチナ人男性と結婚し、長女の重信メイさんが誕生しました。
メイさんはパレスチナと日本のハーフということになります。
重信メイさんの父親は幼少期にイスラエルとの闘争中にミサイル攻撃により暗殺されたと言われいます。
メイさんと重信房子が服役囚となってからも親子仲は良好のようです。
重信房子の婚約者
重信房子さんには2度の結婚歴がありましたが、実は彼女には婚約者の男性の存在が確認されています。
その婚約者は大学の同級生で、1965年~1966年頃に弁論大会に参加したことで2人は知り合います。
重信さんは婚約者の父親にも気に入られていましたが、最終的には政治思想の違いで結婚は破談。
この婚約者の父親は「地方の自民党の国会議員でした。
婚約破談後、婚約者の男性は国会議員となっているそうですが、
婚約者および父親の名前は特定されていません。
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