1950年7月2日に国宝の金閣寺を放火した林養賢について取り上げます。
【動機は「美に対する嫉妬」】
1950年7月2日、京都の国宝、金閣が放火により焼け落ちた。
犯人・林養賢は金閣寺で修行する青年僧。
焼失に隠された謎と、弟子に金閣を燃やされた住職・慈海の胸の内とは?
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いったいどのような人物だったのでしょうか?
林養賢の読み方と写真
名前:林養賢(別名:林承賢)
生年月日:1956年3月7日
享年:26歳
出身地:京都府舞鶴市成生
学歴:大谷大学中退
林養賢の読み方は「はやし しょうけん」です。
林養賢は京都府出身の僧侶で国籍は日本人、もしくは在日だったなど諸説あるようです。
林養賢は京都府舞鶴市の寒村の古寺に長男として生まれます。
母親の過度な期待などから金閣寺の見習い僧侶となり、修行を続けながら大学に通っていました。
そして、1950年7月2日に当時22歳だった林養賢は火を放って金閣寺を燃やそうと火を放ちます。
その後、逮捕された林養賢は動機について、
「金閣の美しさに嫉妬」「世間の注目を集めたかった」「寺の関係者に恨みがあった」
などと話しますが、火をつけた真相については現在もハッキリとしていません。
林養賢の生い立ちと母親
林養賢の父親は、林道源という京都の成生という小さな部落にある西徳寺の和尚でした。
林道源は若くして結核で亡くなっているため、林養賢は母親の志満子の元で育ちます。
しかし、林養賢と母親・志満子の関係は複雑で、良好な関係ではなかったみたいです。
さらに、林養賢は幼い頃から吃音症を患っており、大人になるにつれ症状が悪化。
上手く他者とコミュニケーションを取ることが出来ず、人間関係で苦労していたみたいです。
よく母親や周囲の人たちと衝突していたみたいです。
金閣寺の見習い僧侶となった後も人間関係のトラブルが続き、金閣を放火する少し前には金閣に住み込みで働く雑用人の1人とトラブルになり、流血沙汰になったこともあったそうです。
このように林養賢は気性も荒く、人間関係のトラブルも頻発していました。
しかし、周囲は林養賢が吃音に苦しみ悩んでいたことを知っていました。
また、気性は荒くとも林養賢は真面目に仏道や修行に取り組んでいたので、周囲からは真面目な修行僧と思われていました。
その証拠に林養賢が金閣寺を放火して逮捕された後、彼をよく知る人物らは、「彼が火をつけたことが信じられない」と口を揃えています。
林養賢のその後と死因
逮捕された林養賢は京都地裁で懲役7年の判決を受けます。
判決後は刑務所で過ごすも、結核を患い徐々に体調が悪化。
1952年に恩赦で5年3ヶ月に減刑されるも、 1953年に東京・八王子の医療刑務所に送られます。
そして、26歳の若さで亡くなってしまいます。
母親の志満子は息子の犯した事件に衝撃を受けて、事件後すぐに自殺をしています。
林養賢の父親は禅宗の僧侶で結核で既に他界。この事件で警察に呼び出された母親は事件の詳細を聞いて衝撃を受け、帰途の山陰本線の車内から保津峡に身を投げて自殺。
— matrix (@matrix____) October 18, 2023