加藤智大死刑囚(39)の刑が2022年7月26日に執行されました。
加藤智大死刑囚は2008年に起きた「秋葉原無差別殺傷事件」の犯人でした。
秋葉原無差別殺傷事件
2008年6月8日午後、東京・秋葉原の歩行者天国の交差点に、元派遣社員の加藤智大元死刑囚がトラックで進入。歩行者をはねた後、ダガーナイフで襲い、19〜74歳の男女7人が死亡、10人が重軽傷を負った。加藤元死刑囚は殺人罪などに問われ、公判では、ネットの掲示板に自分になりすます嫌がらせが動機だったと説明した。東京地裁は11年3月、求刑通り死刑判決を言い渡し、15年2月に最高裁で確定。2022年7月26日に刑が執行された。
当時世間を震撼させた凶悪事件でした。
そこで今回は加藤智大の家族と生い立ちについてまとめていきます。
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加藤智大の両親と家族構成
加藤智大は1982年9月28日生まれの青森県出身です。
躾・教育に厳しい母親と仕事人間の父親のもとに2人兄弟の長男として誕生。
加藤智大には弟がいましたが、加藤智大だけが母親から厳しい躾をされていました。
母親は学歴至上主義者で、特に加藤智大に対する過剰な教育は虐待と呼べるほどの内容でした。
加藤智大(秋葉原の通り魔)が受けていた虐待の一部
「察して母」は加藤に何か落ち度があると、理由を説明せず「私が何故怒っているのか理由を察しろ!」で躾をしていましたそして、その加藤智大は「自分は母親のコピーのような存在」と裁判でも悪影響を認めています pic.twitter.com/6RuTBU04d5
— kouei🍡 (@kouei52) March 11, 2020
・小学生の頃に極寒の中で薄着で外に立たせられ続ける
・九九が覚えられないときには、お風呂の水の中に頭を沈めた
・泣くと母親はさらに激昂してタオルを口に詰め込み、ガムテープでぐるぐる巻きにする
・恋愛や友達と遊ぶことを禁止される
・食べるのが遅いと、新聞を敷いた廊下に出され、そこにご飯を撒かれ、食べるように言われた
上記のように加藤は母親の怒りを買ってしまうと、酷い虐待をされてしまっていました。
父親も弟も母親の異常性に口出ししなかったことや、インタビューでの口ぶりからすると極端な虐待を受けていたのは加藤智大死刑囚だけだったといわれています。
加藤智大が高校時代で落ちぶれて家庭内外で暴力を振るうようになったことや、弟も高校を入学から3ヶ月で中退して引きこもりになったことから、母親はようやく自身の教育の間違いに気づきます。
母親が兄弟に謝罪したと報じられているので、弟さんも兄ほどではないですが、厳しい躾は受けていたのかもしれません。
加藤智大の両親(母親 父親)と弟の現在
加藤智大の弟は事件後にマスコミに追われ続ける日々を送ります。
事件後は当時働いていた職場を退職。
アパートも引き払い、当時住んでいた東京からも離れます。
自分の名前をネットで検索すると、すぐヒットしてしまう状態だったそうです。
ネット掲示板には同級生と思われる書き込みがあり、あることないことを好きに書かれていました。
弟さんは隠れるようにして地方に移っても、マスコミに追われ続け、心が消耗していきます。
辛い生活のなか、弟さんにとっては彼女の存在だけが唯一の救いでした。
弟さんは彼女に加藤智大との関係を包み隠さず話し、彼女からは「兄は兄、弟は弟だから関係ない」と言われ、心底ほっとします。
弟さんは彼女と結婚するために仕事に意欲を燃やし、正社員として働くことができるようになります。
しかし、いざ結婚となると、彼女の両親からは猛反対されてしまいます。
さらにマスコミが二人が同棲するアパートにも記者が訪れ、動揺した彼女から「あなたが犯人の弟だから……」と言われてしまいます。
他にも「一家揃って異常なんだよ、あなたの家族は」などと、弟さんにとっての禁句が彼女の口から洩れるようになり、弟さんは唯一の希望だった彼女との結婚を諦めます。
彼女との結婚を諦めたことにより、生きる希望が絶たれた弟さんは自殺を選択します。
弟さんは2014年に享年28歳で亡くなりました。
「加害者の家族として生きる」ことの厳しさと苦痛が綴られた手記が残されていたそうです。
加藤智大の両親も事件後に厳しい現実が待っていました。
加藤智大の両親は事件後に離婚しています。
父親は地元の信用金庫に勤めていましたが、事件後に退職。
2014年に『加藤死刑囚の青森市の実家には、60歳になる父親が一人で暮らしている』と報じられています。
地域との縁も切って、暗い部屋にろうそうく一本で生活しているとのこと(2014年時点)。
父親は現在も実家で暮らしているかもしれませんが、どのような状況なのかは不明です。存命であれば、68歳になっています。
母親は息子が起こした事件の罪の意識に苛まれ精神病院に入院。
体調が安定した後は、青森市にある自分の実家に戻ります。
そして、青森市内のアパートで一人暮らしを始めたそうです(2014年時点)。
孫(加藤智大)の事件を知って体調を崩した自分の母が急死するという不幸にも見舞われています。
加藤智大の家族(弟 父親 母親)の名前や顔画像は不明となっています。
もし加藤智大が母親の異常な教育を受けずに育っていたらどんな人間になっていたのだろうか。恐らく殺人を犯すような罪人となることはなく弟も自ら命を絶つような悲劇に見舞われなかったのではないか。父はなぜ母を諌めなかったのか?母親だけが家庭教育を担う危険性を社会に知らしめた事件でもあった。
— 旅と歴史好きの戯れ言 (@thepasttalks) July 7, 2016
弟さんの彼女の名前や顔画像なども特定はされていませんでした。
以上のように加藤家は悲惨な結末を迎えています。
加藤智大の生い立ち
秋葉原歩行者天国殺人事件の犯人加藤智大は最高裁で死刑が確定した。あとは絞首刑に処せられる日を待つだけの命となった。加藤死刑囚は母親のスパルタ教育の結果、母親の母校青森高校に進んだが、母親の期待した北海道大学工学部の受験に失敗し、岐阜の短大を出て派遣労働者となり犯行の日を迎えた。
— 旅と歴史好きの戯れ言 (@thepasttalks) July 7, 2016
加藤智大は母親の異常な教育(虐待)から辛い生活を送ることになりましたが、
青森県内有数の進学校である青森県立青森高等学校に進学します。
しかし、成績優秀な生徒が県内外から集まった高校だったため、次第に落ちぶれていきます。
虐待されてきた母に対しては、今度は自分が暴力で返すようになります。
なんとか高校は卒業しますが、希望していた大学に合格できず、岐阜にある中日本自動車短期大学に進学します。
短期大学を卒業した後は宮城県仙台市でアパート暮らしを始めます。
人材派遣会社に登録して警備員の仕事に就きます。
その後は職場を転々としながら派遣生活を続けていきます。
2003年3月:岐阜県の中日本自動車短期大学卒業
2003年7月~2005年2月:宮城県仙台市で警備員
2005年4月~2006年4月:埼玉県上尾市の自動車工場の派遣社員
2006年5月~2006年8月:茨城県常総市の住宅建材メーカー
2007年1月~2007年9月:青森県青森市でトラックの運転手
2007年11月~2008年6月:静岡県裾野市の自動車工場の派遣社員
職場でトラブルが起きたこともあったみたいですが、勤務態度は基本的に真面目で、友人も多かったそうです。
しかし、職場を転々としていたことから自分に安住の地が無いことを悟り、生きていくことに疲れ自殺を考え始めるようになります。
また、茨城県常総市の住宅建材メーカーに勤めていた頃からはネット掲示板に没頭し、依存するようになります。
2007年11月からは最後の職場となった自動車工場では、塗装工の仕事に就いていました。
しかし、リーマンショックの影響で工場が2008年6月で閉鎖することになってしまいます。
加藤は、2008年5月に契約解除となってしまいます。
加藤は派遣会社が提供する寮で暮らしていたため、住まいと職場を無くすことになってしまいます。
加藤はネット掲示板に当時の絶望した心境を投稿していました。
このとき、加藤智大は完全に生きることに疲れていたようですが、まだネット掲示板が唯一の心が安らぐ場所ではありました。
しかし、掲示板が「なりすまし」により荒らされるようになり、さらに同時期にネット上で知り合った女性に彼氏がいることが発覚します。
理解者で友人だった男性にも彼女ができるなど、加藤智大死刑囚にとってショックな出来事が立て続けに起こります。
そして、追い詰められていった加藤智大は2008年6月8日12時30分に「秋葉原無差別殺傷事件」を起こします。
平成最悪の通り魔事件と呼ばれたこの事件では、当時19~74歳の男女7人が死亡し、10人が負傷しました。
加藤は、秋葉原の交差点にトラックで突っ込み、男性5人をはねます。
はねられた5人のうち、3人が死亡。
トラックから降りた後、ダガーナイフで男女12人を刺し、このうち4人が死亡しました。
加藤は事件発生から2分後に駆けつけた警察官らに取り押さえられて現行犯逮捕となりました。
わずか2分足らずの間に7人を殺害し、10人に重軽傷を負わせました。
加藤智大の死刑執行と動機について
殺人などの罪に問われた加藤智大は、2011年3月の一審東京地裁判決は死刑が言い渡されます。
2015年2月に最高裁は上告を棄却し、加藤智大の死刑が確定しました。
裁判では、掲示板サイトで「成り済まし」や「荒らし」といった嫌がらせを受け、怒りを募らせたと動機を認定しています。
加藤智大死刑囚は獄中から出版した自著『解+』の中でも犯行の動機について触れています。
手記によると、母親は自分の価値観が絶対であり、それに反論することは許されなかった。
加藤も同様で自身の価値観に反することをする人間を許さないという趣旨のことが書かれていたそうです。
ネット掲示板を荒らした人間への間接的報復として大量殺人を思い立ったということです。
加藤智大の最期の絵
加藤智大は2015年から毎年、イラストやエッセーなどを「死刑囚表現展」(死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金主催)に応募していました。
2022年7月26日に加藤の死刑執行がされた後に開かれた「死刑囚表現展 2022(10月14日~16日)」では加藤の絵画は計81点展示されたそうです。
全体として裸の女性を描いた絵が多く、右側に「ありがとう」という小さな文字が記載されている絵が最後の作品と位置づけられています。
「ありがとう」の文章は死刑の執行を予感していたのではなく、今回応募した最後の作品という位置づけで記載されたとされています。